枕が変わると眠れないだとか。 そんなかわいい性質に生まれついた覚えもなければ、繊細でお上品な人間の苦悩なんざ理解できるはずがない。 する気もない。 そんな自分が不眠に悩まされ始めている事実から、ハイレオンは敢えて目を反らした。 確かに最初はどうということもなかったのだ。 騒がしい中で眠りにつくのは慣れていたし、それでいて自分に向けられる気配には瞬時に反応できる───そうでなければ掟無用、力こそ全てのならず者共をまとめ上げ、己の配下に抑えておくことなど出来はしない。 さわさわと直接脳に届く小さな子供の声など、最初は無視できたのだ。簡単に。 カエリタイ、カエリタイ・・・カエリタイ 馬鹿のひとつ覚えのように繰り返される郷愁の声。 「おい、今度はオメェの番だぜ」 早く賽を振れ、とテーブルの盤を挟んで顔を突き合わせている男が苛ついたようにハイレオンを急かした。 二人の前に広げられている遊技盤は、双六とチェスその他諸々のボードゲームを混ぜこぜにしたような『アトラク・ナクア』のオリジナルゲームだ。 どのコマを幾つ動かすかは賽の目次第で、相手の陣地を侵略して王将を討ち取った方が勝ち。当然全てのコマが賭の対象になっている。 軽く肘をつくふりで痛むこめかみを押さえながら、ハイレオンは手の内のダイスを弄んだ。 「やる気ねーのかよ、レオ?」 「───気が乗らねぇ」 どちらかといえば優勢にコマを展開していながら妙に心此処にあらずな様子に、対戦相手の男は首を傾げる。 ハイレオンがこのアトラク・ナクア号に乗せられて4ヶ月。 乗船後直ぐにあの“鎖”を掛けられたにも拘わらず、何ら変化がない男の様子に、既に周囲は彼が鎖持ちであることを忘れつつあった。 「イススィール島……ての、知ってるか?」 鎖が発する、殆どが意味不明の言語の中でいくつか拾えたのは「イススィール島」「エターナルデザイアー」そして「カエリタイ」…。 カエリタイというなら返してやればいい。それでこの忌々しい鎖とおさらばできるなら、居心地の悪くない船から脱走を図るのも、割合気の良い連中を幾人か手にかけるのも厭うつもりはない───そう思う程度には煮詰まってきている。 だが行こうにも、イススィールなんて名前の島は聞いたこともないのだ、残念ながら。 「イススィールねぇ。ちょいと待ってな、確かあの爺さんがそう言うのに詳しいはず…」 そう言って呼び寄せたのは、初日にハイレオンへ酒を勧めた老人だった。 相変わらず酔いどれて足下さえおぼつかない。 だが、こう見えても密輸に関わって捕らえられた元海賊で、アトラク・ナクアに乗せられて早40年。幾度も陸に上がる機会がありながら、すっかりこの船が気に入って自分の棺桶とまで決めている変わり者だ。老いても海洋の知識は確かで、潮流や天候を読む力はピカイチだという。 老人はイススィール島という名前にしばし考え込んだが、やがてポンと両手を打った。 「ああ、憶えとる。いつだったか難破した船の生き残りを拾ったときに、若いのが言ってた島だわな。 なんてったか───ああ、名前が思い出せん」 「そいつの名前なんぞどうだっていいさ、それより他に何を言っていた?島の場所は聞いたのか?」 「場所は此処からさほど遠くないと思ったぞ。何でもフェレスに導かれて『エターナルデザイアー』を求めるとかなんとか…」 それだ。 ハイレオンの口元が微かに笑みの形に歪んだ。 やっと見つけた───突破口だ。しかもお誂え向きに、近海を航行中と来ている。 これを逃す手はない。 ちりちりと頸の後ろが逆立つ感触がある。それはかつて、闇の中命の遣り取りをした日々には常日頃身に帯びていた感覚だった。 生存本能が咆吼を上げ、封じられた昏い場所から脱出路を求めて蠢いている。 もう限界が近いのだと訴えている───。 「ん?これは……におう、風が…」 くんと鼻を鳴らし、不意に老人の赤ら顔から酒精の気配が削げ落ちた。 ぽかりと見開いた眼が、天井を突き抜けた先の夜空を見上げている。 「なんだ、爺さん。飲み過ぎて───」 「…嵐が来る」 「んだと?!ンなハズぁねーだろ。ここ暫く雲ひとつない快晴続きで。 さっき甲板に上がったときだって、こーんな見事な半月が浮かんでたんだぜ?」 「追ってきとる……低気圧の渦だ」 前触れもなく、音を立てて船体が大きく傾ぐ。 その場にいる全員が顔を見合わせた一瞬の静寂の後───次の瞬間には甲板への階段を駆け上がっていた。 「うわっ…ぷ!」 扉を開けた途端、横殴りの雨と船体を軋ませる横波が飛び込んでくる。 空は分厚い雲に覆われて月の欠片もなく、暴風雨でまともに立つことも出来ないまま、何かに捕まらなければ簡単に波に攫われそうだ。 「何の冗談だ、こいつぁ…」 「碇を───!!」 「帆を畳め、早くッ」 「波に船体をたてねぇと持ってかれるぞ!舵を…───!!」 怒号の飛び交う混乱の中、ハイレオンは見た。 しゅるり、と幾本もの長い腕が(腕と称していいものか疑問だが)主帆柱を掴み、船体の其処此処に絡み付き、今にも引き倒そうと力を込めるのを。 ( この化け物が、連中には見えてないのか?!) ───ゴォオオン。 海が裂ける。 いや、裂けたのは船の方か? 塵芥のようにバラバラと投げ出された人影は、悲鳴を上げる暇さえないまま沈む船が生み出す潮流に引きずられて水底へと沈んでいく…。 ───きゃははは…っ 例外なく引き込まれかけていたハイレオンの耳元に、甲高い何かの囀りが届いた。 水圧で肺から呼気を押し出される苦痛に眇めた視線を巡らせば、更に信じられない光景が眼に飛び込んでくる。 鼻先がぶつからんばかりに近接した顔。 水死体のモノではない。人間のモノでさえない───この魚面をなんと表現したらいいのだろう。 人のように平たい顔に魚類を思わせるパーツが付いている。 長い髪、鰓を刻んだ細い頸…その下に続くのは、しなやかで豊かな女の躯だ。 それが腰を過ぎる辺りで鱗に覆われ、長い尾ひれが緩くしなる。 (…おいおい、人生最初で最後に見る人魚がサカナヅラかよ…。せめて夢ぐらい持たせてくれ) 幻覚にしたって質が悪すぎる。冥土の土産なら、好みの美人で出てきたって罰は当たらなそうなものだ。 うんざりと眉を顰めると、人魚は華奢な手を伸ばし真黒い鎖に触れた。 ───ふぇれす…ヨぶね ───ワタシたち、よぶ───かエる…いすすぃーるノ… 「ッ…!!」 突如として与えられた酸素に、反射で身体が噎せた。肺まで入り込んだ水を吐き出しながら身を捩る。 発作が治まってようやく目を開ければ、そこは海面で───嵐の気配は既に何処にもなかった。 狐に摘まれたような面持ちで見回すと、幾ばくかの板きれと樽の残骸が漂い、確かに此処に船が存在ったのだと訴えかけてくる。 ───人影は何処にもない。 いいや。 ───きゃ…きゅるるぅ ぱしゃり、と間近の水面に例の魚面が顔を出した。 躯…ってェか、首から下の上半身だけ見りゃ一級品だな、と幾分緊迫感のない感想が頭を掠める。 そう言えば他に何体もいた人魚達は、揃って船乗り達の腕や脚を掴み、海底の深みへと引きずり込んでいるように見えた。 なのに、俺だけは逆に海面へと引き上げられたのか…。 「コイツ───か…」 腕に絡み、高い金属音をたてる“鎖”へと目を落とす。 確かに人魚等は言った、「エターナルデザイアー」と。 あの常識はずれの嵐と、妄想の産物のような巨大な化け物が何だったのかは解らない。 もとより市街地や山中を拠点として生きてきたハイレオンにとって、海の怪事など閑文外もいいところなのだから。 しかし、どうやら───選定したように人魚が自分だけを生かしたのも、このイカレた鎖に関係しているのは間違いないようだ。 鎖からの声は、今も途切れることなく続いている。それも歓喜の色を帯びた声が。 こんな重い物を身につけていれば自ずと自重で沈みそうなものだが、今は鳥の羽根一枚ほどの重量も感じない。 「これが欲しけりゃ、やるぜ」 此処で厄介払いが出来れば儲けものだと、半ば本気で思いつつ人魚に差し出してみたのだが、フルフルと頭を振って拒否されてしまった。 代わりのように、細腕がゆらりと水平線の彼方を指さす。 「イススィール島…か?」 こくり。 「此処から泳げってのか?」 更にこくり。 「……マジかよ」 此処からどれくらいあるんだ?と未だ見えぬ島影を思い、男はげんなり肩を落とした。 ( 続く)
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